自分のポンコツを愛する。ネコのポンコツを愛する。
イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
【ヨハネによる福音書 8章1節から11節】
こんにちは。
愛と光の天使たち。
おっちょこちょいのすっとこどっこいたちよ。
わたしはあなたのことを愛しています。
今日は、人間はみんなポンコツなんだから、自分も他人も許しましょう、というお話です。
繰り返しになりますが、人間はみんなポンコツです。
誰かが誰かより優れていたり、劣っていたりすることはありません。
どんな人間も完璧ではありません。
どんな人にも、必ず欠点があり、短所があり、欠陥があり、問題を抱え、人生に迷い、思い悩んでいます。
世の中には、天才とか、偉人とか、聖者などがいて、彼らが素晴らしい功績を残したり、大きな影響力を持っていたり、優れた行いをしたことで、その人物を特別な存在だと認めてしまいがちですが、広い広い宇宙という視点からみると、それらはどんぐりの背くらべであり、たいした差なんてありません。
みんな一緒です。
みんな同じです。
また、病気や障害を抱えているから、学歴が低いから、容姿にコンプレックスがあるから、お金持ちでないから、有名でないからといって、そのことで劣等感を抱く必要もありません。
そんなことで思い悩むのは馬鹿げています。
なぜなら、多かれ少なかれみんなポンコツであり、その差はほんのわずかなものであり、その小さな小さな差を、あたかもとてつもなく大きな違いであるかのように誇張して、大騒ぎしているのがわたしたちの姿だからです。
それに、もしその差を強調するのだとしたら、世の中は個性があるからこそ面白いのであり、違いがあるからこそ、わたしたちはお互いの良さを見つけられるとも言えるのではないでしょうか。
つまり、どのような論理を用いても、自分と他人を比較することは意味のないことと言えるのです。
わたしたちはただ、欠点を補い合って、みんなで協力をして、みんなが自分にできること、自分の得意なことで社会に奉仕していればそれで十分なのであって、わざわざ他人より優れていることを誇りにしたり、他人より劣っていることを卑下したりする必要なんてないのです。
みんな愛です。
人間の本質は愛です。
そのことを知っているだけで、これらすべての思い込みを吹き飛ばし、笑ってやり過ごすことができるようになります。
愛に気づくことが、わたしたちの人生の目的です。
悩みや苦しみというのはもともと、この愛からの分離が原因で起こっており、この分離が、肉体を自分だと思い込むという錯覚を引き起こし、そのことを身をもって体験しているのがこの世界なのです。
つまり、悩み苦しみのもとをたどると、すべては肉体、自分たちの体の問題に行き着きます。
体は魂の乗り物であり、愛という目的地に到着するために、地球から借りているだけの車のようなものです。
車のデザインや大きさ、色や形や種類、そこについた傷やサビ、故障した車もあれば、ハイスピードを出せる車、環境に優しい車、たくさんの荷物を運べる車、いろんな車があって、それぞれが愛という目的地を目指しています。
車の個性に執着することで、人生の目的を忘れてしまうのは本末転倒です。
あなたの人生の目的は愛の意味を知ることであり、それ以外の人生に付随する様々な問題は、愛とは何の関係もないものです。
あなたはいつか死ぬのです。
明日は与えられないかもしれません。
体は毎日衰えていき、朽ち果て、滅びゆく運命にありますが、魂は違います。
魂は不滅です。
また、魂は肉体を通して、スリルとか、ユーモアとか、パッションとか、ミステリーを楽しんでいます。
強烈な好奇心、強烈な笑い、強烈な楽しみ、強烈な快感を魂は求めています。
実は、体には体の意識があり、この意識はどちらかというと、安定とか、落ち着きとか、のんびりすること、毎日が同じで変わらないことを強く望んでいます。
体は変化が苦手なのです。
体はいつもビクビクしているので、自分を守るために、他人との差を強調することで、優越感を抱いて安心したり、劣等感を抱いて動けなくなったりしています。
この点において、体はまさにポンコツです。
しかし、魂はポンコツではありません。
魂は完璧です。
ただ、切実に体験を通してこの世界を知りたいという望みを持っているのが魂なのです。
だから、体と魂を上手に融合させ、素晴らしい人生を送るために、愛へと帰還するために、そして、愛へと戻るための過程も、楽しい道のりへと変えるために、自分のポンコツを愛してください。
自分を愛することは、自分の不完全性さえも愛するということです。
いとおしい気持ちで、自分にはできないこと、うまくやれないこと、上手にできないことを愛してください。
誰だって器用ではありません。
誰にだって、得意なこと、苦手なことがあるものです。
それでいいのです。
何も問題もありません。
すべてのことを許しましょう。
全部の全部を許しましょう。
そのことに囚われる気持ちをすべて手放してください。
それが愛です。
自分の至らなさも、他人の至らなさも、すべてのことを許し、手放しましょう。
あなたは自由です。
あるがままに、あるようにありましょう。
この世界もポンコツです。
起こることは起こります。
全然完璧じゃないですが、そこではいろいろ起こります。
その一つひとつに、誠実に対応しなくていいんです。
ポンコツはポンコツのまま許しましょう。
あなたが幸せになるために、何かするべきことがあるとするならば、それは愛すること、許すこと、手放すことだけです。
ポンコツなあなたの中の、完璧な美しさがそこにはあるのです。
自分のポンコツを許しましょう。
隣人のポンコツを許しましょう。
それだけでもう、あなたは天国にいられるのです。
聖書には、すべての人に「罪」があるかのように書かれていますが、この言葉は誤解されており、わたしはそれが「罪」という言葉で示すようなものではないと考えています。
なぜなら、たとえどんなことをしたとしても、人は罪悪感で苦しみ続けるべきではありませんし、「罪」という言葉は怖れを喚起させてしまう可能性があるからです。
それはむしろ、「ポンコツ」と呼ぶべきものであり、憎めないかわいいものだと思います。
この方が、イエスさまが本当に伝えたかったことを上手に表現できているように思います。
なぜなら、イエスさまの教えは、ただ「愛しなさい」という、とてもシンプルなものであり、そこには、複雑で難しい教義などは必要ではないからです。
だから、わたしはあなたにも、シンプルに「愛」を求める生き方をしてもらいたいと願っています。
あなたの生きる毎日が、あらゆるポンコツを許し、手放すものとなりますように。
愛と光を。
p.s.
聖書に書かれているすべての「罪」という言葉を、「ポンコツ」に置き換えて読んでみると、とてもほっこりとした印象になり、いろいろと気づくことがあるのでおすすめです。
また、「神」や「父」という言葉を、「ネコ」に置き換えると、すごく心が和み、とてもかわいい感じに読めるので、そちらもおすすめです。