神さまのいない物語。ネコのいない物語。
あるところに、神さまはいませんでした。
ですから、「あるところ」もありませんでした。
ある日、と言っても、そんな日はないのですが、神さまは言いませんでした。
「光あれ」
そんなことを言っても、光はありませんでした。(そもそも、誰もそんなことは言っていないのです)
だから、光と闇はできませんでした。
その後、と言っても、時間などないのですが、神さまは様々なことを言いませんでした。
「宇宙がどうのこうの」
「地球がああだこうだ」
「水がどうたらこうたら」
「生き物がなんちゃらかんちゃら」
など、いろんな命令を神さまはしませんでした。(だって、神さまはどこにもいませんからね)
それからいろいろなくて、「アダム」やら「イブ」やら「ノア」やら「モーセ」やら「ダビデ」やら「ソロモン」やら「ヨセフ」やら「マリア」やら「イエス」などが生まれませんでした。
そうして、様々な人間は生まれず、どんなことも起こらず、どんな問題も発生せず、ただただ何もありませんでした。
このようにして、世界の歴史は創られませんでした。
ですから、あなたもまた生まれませんでした。
あなたの個人的な歴史も創られませんでした。
当然、あなたの個人的な問題も何も発生していません。
これが、この世界とあなたの真実の歴史です。
「歴史」と言っても、何も起こっていませんし、「真実」と言っても、そんなものはどこにもありませんけどね。
そして、この物語もここにはありません。
だから、この物語を書いている人はどこにもいませんし、読んでいる誰かもそこにはいません。
この物語は誰にも伝えられず、どんな意味ももたず、どんな解釈もできず、ただただ存在しません。
それが今、ここで起こっていることです。
つまり今、ここでは何も起こっていません。
この物語はこれで終わります。
しかし、何も始まってもいないものが終わるなんてことがあるでしょうか?
いかがでしたか?
この物語は、少し変わったやり方で、あなたに真実について伝えるものです。
と言っても、実際には何も伝えていないのですけどね。
これはとても不思議なことなのですが、わたしがあなたに何も伝えないとき、そして、それでもそこにコミュニケーションが存在しているとき、そこにあるのは愛だけなのです。
愛は神さまです。
もし、神さまが世界の第一の原因であるとするならば、ニーチェの言うように、神さまは間違いなく死んでしまいました。
ニーチェは、キリスト教的ニヒリズム、天国という理屈を利用した他者に対するルサンチマンを批判し、「より良く生きる」とはどういうことかを追求した、「神は死んだ」という言葉で有名な哲学者です。
そもそも、「神」とは、「無限で永遠で完璧な存在」という形而上学的な概念なので、生きていること、死なないことが前提であるにも関わらず、それが死んでしまうというのは大きなパラドックスなのですけどね。
パラドックスを使って指摘しないと、人はなかなか本当のところに気がつかないものなのかもしれません。
たとえば、無神論者や無宗教の人たちは、神さまはいないよ、神さまの存在なんて信じていないよ、と言いながらも、世界や自分の存在のことは頑なに信じています。
実はこれもパラドックスなのですが、彼らはそのことに気がついていません。
もちろん、現実はあまりにもリアルに感じられるので、このことはしかたがないのですけどね。(現実をリアルに感じるって言葉もおかしいですね)
また、神さまの存在を信じている人たちも、神さまを不完全な世界の第一の原因とすることで、神さまを死なせてしまっているのです。
神さまをこの世界に関与させてしまえば、それは神さまでなくなってしまうのです。
なぜなら、「無限で永遠で完璧な存在」から、不完全なものは生まれるはずはないのですから。
というわけで、人間の理性にとって、神の存在・非存在の議論は、あまり意味のあるものではありません。
この物語を通してわたしがあなたに伝えたいことは、愛であり、それは形而上学的な議論ではありません。
そのようなものは、おそらくあなたには何の役にも立たないでしょう。
そうではなくてわたしは、あなたの日々の悩み、毎日の苦しみを少しでも和らげてもらうために、こういった世界論を展開しているのです。
というのも、あなたに絶対的な安心感を抱いてもらいたいからです。
わたしがあなたに伝えたい福音があります。
福音とは、「いい知らせ」のことです。
その「いい知らせ」とは、あなたは何もしなくてもいいんだよ、ということなのです。
あなたは何もしなくても幸せでいられる存在です。
あなたは何もする必要はありませんし、何か努力することを求められているわけでもありません。
あなたはただ愛されています。
何に愛されているのか?
愛に愛されています。
このことは本当に人間の理解を超えています。
あなたは愛です。
ここにすべての秘密があります。
この世界は夢であり、現実ではありません。
あなたは苦しむために生まれてきたのでも、この世界に翻弄されるために生まれてきたのでもありません。
原因と結果の法則である「カルマ」というものも存在しません。
あなたはどんな法則にも依存しておらず、何かに罰せられているわけでもありません。
エネルギーもまた幻想です。
それは、本当にありありとわたしたちの前に物質・非物質として展開されていて、実際にそこに存在しているかのように感じられますが、ほんの少しもそれは存在しておらず、あなたに何か影響を与える力すら持っていません。
あなたは自由です。
だからどうか、心を解放してください。
どんな束縛も、制限も、ルールも、常識も、他者の意見も、自分の思い込みも、すべてのものを外してください。
それらのものはあなたにはもう必要ではありません。
あなたに必要なものは何もありません。
ただ、喜んでいてください。
楽しんでください。
意味がなければ笑うことができないと思っているのなら、あなたはこの世界に縛られています。
その鎖を、どうか解き放ってください。
あなたは本当に自由です。
世界はありません。
だから、あなたの悩みや苦しみもありません。
しかし、そうは言っても、悲しみや怒り、憂鬱や絶望感がこれからもあなたには降りかかってくることでしょう。
ところで、それは何に対する感情でしょうか?
おそらく、この世界の中にあるもの、自分の中にあるものに対する感情だと思います。
でも、いいですか?
よく聞いてください。
お金がなければ幸せになれないと信じているのなら、お金があっても絶対に幸せにはなれません。
体が健康でなければ、誰かに愛されなければ、望みが叶わなければ、何かを成し遂げなければ、あなたは幸せになれないのだと思っているのなら、あなたはこの世界に洗脳されています。
それはエゴの思考であり、あなた本来の思考ではありません。
あなたは愛であり、愛があなたの思考です。
あなたはいつも豊かであり、健康であり、愛されており、望みを叶えており、すべてを成し遂げています。
あなたは満たされています。
なぜなら、あなたはその体ではないからです。
あなたは心です。
体には希望がありません。
体を通じて展開される人生は、決して思い通りにはなりません。
でも、心は違います。
そして、心がすべてです。
体は思い通りにすることはできませんが、心は思い通りにすることができます。
今、与えられているものに豊かさを感じてください。
あなたに与えられているものは、世界ではありません。
あなたに与えられているものは、愛だけです。
奇跡的なことに、愛は、この世界を通して見つけることができます。
その愛に、感謝を捧げましょう。
神さまは愛です。
愛はこの世界のどこにもいませんし、どこにもありません。
それでも、あなたは愛を必ず見つけることができます。
なぜなら、世界は鏡だからです。
そこにあなたが映るからです。
何度でも言いますが、あなたは愛ですからね。
あなたにはやるべきことは何もありませんが、しかし、このことを突き詰めて考えていくと、あなたは2つのことをするようになります。
それは、「祈り」と「瞑想」です。
祈りとは、すべてのものに感謝をすることであり、瞑想とは、何も考えず、何もしないことです。
これが、あなたの唯一の仕事です。
でも、これは矛盾するようですが、あなたは何もしなくていいんですよ。(ここは、あまり深く考えると混乱してしまうかもしれません)
最初は、あなたにとってそれは、「行為」であるように思われるかもしれません。
しかし、「祈り」も「瞑想」も、究極的には「行為」ではありません。
「祈り」や「瞑想」にはレベル、段階があるので、まずは目に見える形のものに感謝をしたり、呼吸に意識を集中するマインドフルネスなどをおすすめします。
目が見えること、耳が聞こえること、食べられること、動けること、生きていることに感謝をしてみましょう。
そして、何も考えない時間を作ったり、何かに夢中になって行動する時間を作りましょう。
これらのことが、最初からうまくできる人はいません。
たとえば、何で感謝をしなければいけないの、どうせ与えられたものは奪われるのに、どうせ失われるのに、どうせなくなるのに、どうせ死ぬのに、何がありがたいのだろう、何に感謝をすればいいんだろう、などと考えてしまうと思います。
そこまで考えられたなら、あなたはもう少しで真実を見出します。
このとき、「世界ではなく、愛に感謝をする」という言葉を思い出してみてください。
また、あなたにできることは感謝だけだ、という考えも役に立つかもしれません。
それから、何も考えないなんて無理だよ、それに、夢中になれることなんて何もないよ、と思われることもあるでしょう。
こういうときは、その声は一体誰の声なのか、本当にそれはあなたの声なのかを自問してみてください。
ここでも、それは100%エゴの声であり、あなたの声ではない、という考えが、きっとあなたの役に立つことでしょう。
「祈り」と「瞑想」、つまり、「感謝」と「何にも考えないこと」、この2つのことを、失敗してもいいので、やってみてください。
できれば、続けてみてください。
さぼってもいいですし、無理をして続けようなんて思う必要もありません。
それはそれで「祈り」ですし、それはそれで「瞑想」なのです。
これらには「型」がないのです。
この「型」は、あなたの自由な人生だからです。
やってみてくださいと言ってはいますが、実は何かをしてくださいという意味ではないのです。
あなたの本質が感謝であり、思考なき思考があなたであると言っているのです。
ちょっとわかりずらいですよね。
パラドックスって、実は神さまからの贈り物なのかもしれません。
それは、小さな子どもたちが、「なぞなぞ」が大好きなことに似ていますね。
「祈りと瞑想、するけどしない人だ~れだ?」
こんな感じの問いが真実に近い表現なのかもしれませんね。
答えは先ほどからずっと言ってしまっていますが、それは「愛」です。
でも、この答えは、頭で理解しても意味がありません。
答えは心の中にあります。
あなたのハートにあります。
これは、詩的な表現ではなくて、本当にそこにあるという意味です。
答え合わせは、たぶん必要ありません。
そのときには、後頭部を鈍器で殴られるように、または、体が雷に打たれるように、そのことがはっきりとわかるからです。(別に痛いわけではありません、そのくらい具体的に明確にわかるという意味です)
是非、楽しみながらこの「なぞなぞ」を問いてみてください。
あなたの生きる毎日が、神さまのいない世界の中で、神さまを見つけ出す奇跡となりますように。
愛と光を。