ネコでもわかる『般若心経』~色即是空、空即是色~
色即是空、空即是色
(しきそくぜくう、くうそくぜしき)
【般若心経(はんにゃしんぎょう)】
※この世のすべてのものは恒常な実体はなく縁起によって存在する、という仏教の基本的な教義
こんにちは。
愛と光の天使たち。
悟りと恵みの観音さまよ。
わたしはあなたのことを愛しています。
今日は、ありがた~いお経である『般若心経(はんにゃしんぎょう)』の核となる教え「色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)」について、ネコちゃんがわかりやすく説明しようという試みです。
おそらく何かを説明することの難易度で言えば、これ以上難しいものはないというレベルではないかと思います。
でもね、難しことをわかりやすく丁寧に説明しようと努力することで、わたしのあなたへの愛を示せるのではないかと思ったので、失敗するかもしれませんが、とりあえずやってみますね。
本当に大切なことは、このお経の意味があなたに伝わることではなく、わたしの愛が、あなたに伝わることなのですから。
それでは説明させていただきますね。
そもそも『般若心経』とは、お釈迦さまの教えをまとめた書物である経典(きょうてん)の一つです。
お釈迦さまは2500年くらい前に悟りを開かれました。(年代については諸説あります)
その教えが、経典という書物に様々な形でまとめられ、インドから世界へと広がり、現在に至っています。
経典というのはたくさん存在しています。(約8万くらいあるらしいです)
いくつか有名どころを見てみましょう。
般若心経(はんにゃしんきょう)
法華経(ほけきょう)
観音経(かんのんきょう)
阿弥陀経(あみだきょう)
華厳経(けごんきょう)
大日経(だいにちきょう)
涅槃経(ねはんきょう)
弥勒経(みろくきょう)
いっぱいありますねぇ。
その中の一つがこれから説明する『般若心経』です。
『般若心経』は、お釈迦さまとそのお弟子さんたち、そして、菩薩(ぼさつ)さまたちが瞑想をして開いた悟りの内容をまとめたものです。
菩薩さまというのは、「心の優しい聖者」という認識でよいと思います。
『般若心経』は、この菩薩さまの一人である「観自在菩薩」(観音さま)の得た知恵を、お弟子さんであるシャーリプトラ(舎利子)に伝えるという形になっています。
「観音さま→お弟子さん」という図式ですね。
そして、最後にお釈迦さまが、その教えに「全くその通りです」と同意することで『般若心経』は終わります。
「観音さま→お弟子さん」←激しく同意(お釈迦さま)
さて、観音さまの悟った内容が『般若心経』のすべてなのですが、ここではその中心となる考え方である『色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)』について見ていきましょう。
これがわかれば、全部わかったようなものですからね。
最小の努力で最大の効果を得てしまいましょう!
それではいきます。
色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)
ふむふむ。
なにやら難しそうな言葉ですね。
でも、実はこれ、表現自体は全然難しくないんですよ。
少しずつこの言葉を分解してみましょう。
この言葉は、「色」(しき)と「即是」(そくぜ)と「空」(くう)に分けることができます。
それではまず、「色」(しき)と「空」(くう)についてみていきましょう。
「色」(しき)とは、目に見えるもののことです。
正確に言うと、わたしたち人間の五感で知覚することのできるすべてのものを意味します。
簡単ですね。
ようするに、わたしたちの周りにある普通の物質のことです。
「空」(くう)とは、目には見えないもののことです。
これは反対に、わたしたちの五感では知覚することのできないすべてのものを意味します。
これは少しわかりにくいですね。
ここではこれは、「精神世界」とか「心」や「魂」のことを言っているのだと考えてもらってかまいません。
整理しておきましょう。
「色」(しき)→目に見えるもの
「空」(くう)→目に見えないもの
次に、「即是」(そくぜ)について説明します。
「即是」(そくぜ)とは、「2つのものが1つであること」という意味です。
少し難しい表現を使うと、「即是」(そくぜ)とは、「一体不二(いったいふじ)」であるといわれています。
これは、「2つのものは分けることのできない1つのものである」という意味です。
もっともっと簡単に言ってしまえば、数式の「=」と同じことです。
整理しておきましょう。
「即是」(そくぜ)→2つのものが1つであること
さてそれでは、さきほど説明した「色」(しき)と「空」(くう)と「即是」(そくぜ)を合わせると、次のようになります。
「色即是空、空即是色」(しきそくぜくう、くうそくぜしき)
↓
目に見えるものは、目に見えないものであり、
目に見えないものは、目に見えるものである。
そしてそれらは、1つであり、同じである。
やれやれ。
なんだか、言葉は優しくなりましたが、哲学的でよくわからないですね。
実はこの言葉には、何重もの意味が込められているので、一筋縄ではいかず、とても複雑に感じますが、一つ一つゆっくりと見ていけば、理解できないことなんてありません。
あなたのハートで理解できないものは、この世には存在しません。
わたしはなんとかして、この言葉の示す意味の本質を捉えようと思いました。
そしてこの教えの中に、3つの本質があることがわかりました。
それぞれ説明していきますね。
①目に見えるものと、目に見えないものは同じものでできている
『色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)』とは、形のあるものも、形のないものも、同じ一つの素材でできていると言っているのではないかと思います。
物質の最小単位である素粒子によって、わたしたちの宇宙は構成されているように、「何か」一つのものが、目に見える世界と、目に見えない世界を形作っている、というように読み取ることができます。
その一つの「何か」が何であるのかは、ちょっと言葉で説明することができません。
それは「愛」である、と言いたいところですが、「愛」はこの世界とは別のあり方をしているものなので、ここでは「何か」と表現する他ありません。
②目に見えるものと、目に見えないものは、2つで1つのセットである
『色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)』というのは、「色=空、空=色」と同じことを言っています。
順番を入れ替えただけで、言っていることは同じはずなのに、なぜ2回繰り返し語られているのでしょうか?
その答えは、この言葉が2つで1つのセットだからなのではないか、と思いました。
どういうことかというと、「何か」と「何かに対する反応」はセットである、ということです。
たとえば、目の前に木があるとします。
その木は、わたしたちの目に映り、脳にその情報が送られてはじめて、木という「体験/概念」をわたしたちの中に生みます。
木という情報には、「緑色の葉っぱ」、「茶色い幹」、「風に揺れる葉の音」、「その大きさや形」、「自然というものに対するわたしたちのイメージ」など、実に様々な要素が含まれていますよね。
それらの要素にも、さらに細かくわたしたちの記憶と結びついた無数の要素があり、それらがわたしたちにとっての「木」なのです。
何が言いたいのかというと、木は木だけでは木ではなく、わたしたちに認識されてはじめて「木」になる、ということです。
つまりここでは、「色(しき)である空(くう)が、空(くう)である色(しき)を生んでいる」、ということを言っているのではないかと思うのです。
少しややこしいのですが、「目に見える目に見えないものが、目に見えない目に見えるもの生んでいる」という意味になるかと思います。
(´・ω・`)?
だんだん、雲行きがあやしくなってきましたね。
何回も読んで確認しないと、自分でも何を言っているのかよくわからなくなります(笑)
わたしはこれを、「世界が心を映し、心が世界を映している」、ということを意味しているのだと思いました。
つまり、世界に対する心の反応が、わたしたちの実際に体験する「世界」という現実を生み出しているということです。
あんまり難しく考えず、先を読んでいただければ、このことはそのうちなんとなくわかるようになります。
③すべてのものは「空」(くう)である
『色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)』というのは、すべてのものは「空」(くう)であるから、変化し、実体がないということを言っているのではないかと思います。
「色」(しき)、目に見えるものは、確固としてそこに存在しているように見えますが、実はそんなことはなく、「空」(くう)、目に見えないものと、同じようにあやふやで不確かなものである、ということをここでは言っているのです。
つまり、この世界のすべてのものは移ろいゆき、変化してしまうむなしいものである、ということですね。
まとめ
さて、『色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)』という言葉の3つの本質を見てきましたが、これらを統合すると何が見えてくるのか、この言葉は本当は何を言いたかったのかを見極めてみましょう。
1.わたしたちの外側にある現実も、わたしたちの内側にある現実も、同じ「何か」によって創られています。
2.その2つの現実は、分けることのできない同じ「何か」であり、心の中にあるものが外に映し出され、心の外にあるものが中に映し出されています。
3.この「何か」は常に変化していて、それには実体はなく、意味はなく、生まれては消えていく儚いものです。
このようにまとめられます。
そして、このことから推察される、究極の教えがあります。
4.その「何か」は、まず、わたしたちの心の中にあり、わたしたちの心のあり方によって、わたしたちの意志によって、変えることができるものなのだ、という教えです。
これは、何を言っているのかというと、この世界には意味というものが最初から付与されているわけではなく、それはわたしたちの心が後から付け加えたものなのであって、この世界は常に中立的であり、意味のないまっさらなものであるから、わたしたちの心の持ちようが、わたしたちの幸不幸を生んでいるに過ぎないのだ、ということです。
仏教では、「縁起」と呼ばれていますが、これは原因と結果のことです。
つまり、この教えの本質は、この世界で起きていることとは無関係に、わたしたちは、わたしたちのあり方を変えることで、わたしたちの望んでいるものの原因になることができる、という意味だと思います。
きっと、これが観音さまの言いたかったことなのではないかとわたしは考えました。
何を見ても、何を聞いても、心の中にいつも同じ「何か」を保持することができれば、この世界で何が起こっても、どんな体験をしたとしても、心穏やかに平穏な時間を過ごすことができるのではないでしょうか?
そしてわたしは、この教えを発展させて、この「何か」を愛と一つにしてしまえばよいのではないかと考えました。
「何か」は変わってしまいます。
「何か」は確かなものではありません。
でも、変わらないものがあります。
確かなものがあるんです。
それは愛であり、この「何か」を最高のものである愛と一致させることができれば、わたしたちは、信じられないほどの強さを身につけられるのではないかと思うのです。
それゆえわたしはあなたに愛を伝え、あなたの存在の本質が愛であることを伝えるのです。
あなたは愛です。
そして、わたしはあなたを愛しています。
あなたにはそれだけの価値があるのです。
ネコでもわかるように『般若心経』を伝えるつもりでしたが、さすがにネコにはわからない内容になってしまいましたね。
もっとも、ネコやイヌなどの動物は、何か大切なことを知っていて、いつも自然体なので、人間であるわたしたちも、見習いたい部分がいっぱいありますよね。
何かをわかりやすく伝えるとき、わたしはできるかぎり簡単な言葉、優しい表現を使おうと心がけているのですが、簡単な言葉を使えば使うほど、その内容は抽象的になり、頭で捉えることができなくなるので、困ったものです。
しかしながら、頭で本当のことを理解するなんて、実際には不可能なことだとも思っているので、これはこれでいいのかもしれません。
わたしが伝えたかったのは、虚空であるこの世界の、変えられるものはすべて、愛という最高次元の概念によって塗り替えてしまいましょう、ということなのです。
あなたの不安や迷いを、苦しみや辛さを、すべて愛へと結びつけ、むなしい気持ち、やるせない気持ちを、自分や他人を愛することで忘れてしまって欲しいと思います。
人生はあまりにもわけのわからないものであり、あまりにも過酷なものなので、わたしは普通ではないやり方で、尋常ではない強さで、あなたに幸せになってもらいたいと思っているのです。
この記事があなたのゆく道を照らし、ほんの少しでもあなたのお役に立てることを願います。
あなたの生きる毎日が、「色」と「空」の狭間でも、決して動揺することなく、はっきりとした愛念をもって、強く強く生きていけるものでありますように。
愛と光を。
※参考文献とその仲間たちです。