ネコによる福音書

~愛と癒しのメッセージ~

ネコによる福音書
ネコによる福音書

神のみ心のままに。ネコのみ心のままに。

ねこ

 

主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。

すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。

しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。

イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

【ルカによる福音書 17節から20節】

 

ようこそ。

愛と光の天使たち。

罪なき無垢な子どもたちよ。

あなたは許されています。

愛されています。

 

今日は、心についてのお話です。

 

人生とは、罪と罰のストーリーです。

 

あなたの中には、無意識の罪悪感があります。

 

「意識することのできない」「罪の意識」が、あなたの中にあるのです。

 

え?そんなのないよ、別に自分は何にも悪いことしてないし、いいかげんなこと言わないでよネコちゃん、とあなたは思われるかも知れませんね。

 

でも、それは意識することができないので、あなたにはわからないのです。

 

あなたはその罪の意識を感じないために、それを自分の中ではなく、自分の外に置いているのです。

 

その自分の外に置いた罪の意識のことを、あなたは世界と呼んでいます。

 

あなたはそのようにして、世界と自分を分けることで、世界によって自分のことを罰しているのです。

 

あなたは自分のことをその肉体とすることで、老化したり、病気になったり、傷ついたり、死んだりすることができるようになりました。

 

この世界で起こるすべての苦しみは、「世界があなたを罰している」という構造をとっているのです。

 

そうすることで、あなたは無意識の罪悪感、意識することのできない罪の意識を償っているのです。

 

償いです。

 

あなたが自分のことをその体だと考えている限り、あなたの人生は償いとして存在しています。

 

これらの罪と罰、そして償いという構造はどこからきたのでしょうか?

 

それは、もともと一つであった神さまとあなたとの分離からきているのです。

 

神さまとあなたはもともと一つでした。

 

今も一つです。

 

あなたは覚えていませんが、あなたの無垢な心がこの世界を創造したのです。

 

完璧でないこの世界は、神の中に置くことはできなかったので、あなたは自分をバラバラに分けることでこの世界を創造したのです。

 

もっともこれは比喩なので、実際には世界は創造されているわけではありません。

 

世界という幻想をあなたが創り出しているだけです。

 

夢を見ているのと同じですね。

 

もともとこの夢は悪夢ではなかったのですが、夢を見ていたあなたが夢の中の登場人物になりきってしまうことで、「神さま」という存在のことを完全に忘れ、悪夢へと変貌してしまったのです。

 

こうして、あなたの中に、自分はとんでもない過ちを犯してしまったに違いない、という無意識の罪悪感、意識することのできない罪の意識が生まれたのです。

 

あなたは神さまのことは覚えていないのですが、記憶のどこかでとても大切なものを失くしてしまったような感覚があるのです。

 

その喪失感が、無意識の罪悪感として現れているのです。

 

あなたはその失った「何か」が、あまりにも素晴らしいものであったことだけは覚えていて、そのために、あなたはその「何か」を失ってしまったという強烈な罪悪感を自分の中に置くことに耐えられなかったので、それを世界に投影したのです。

 

この投影とは、あなたの中にあったものを外へと放出する作業でした。

 

世界にあなたの罪の意識を投影することによって、もともと清らかだった世界が、恐れに満ちたものへと変わりました。

 

あなたの中にはこれでもう罪の意識はなくなったので、あなたは被害者としてこの世界で生きるようになったのです。

 

そして今も、あなたはこの世界に罰せられているかのような生活をしながら、心のどこかでいつしか体験したことのある素晴らしい記憶のかけら(神さまとの思い出)を探し続けているのです。

 

これが、わたしがあなたに提示する罪と罰のストーリーの内容です。

 

このようなストーリーを無理に受け入れる必要なんてありません。

 

あなたにとって何か少しでも生きるヒントにしてもらえればそれでいいのです。

 

役に立たなければ捨ててしまっていいのですよ。

 

さて、この罪と罰のストーリーは、これからもどんどん勝手に進行していきます。

 

しかし、あなたはこのストーリーに最後まで付き合う必要なんてないのです。

 

今や、このストーリーを超えて、幸せを獲得することが、あなたの人生の目的となったからです。

 

真実を知るまでは、世界はあなたのことを罰し続けます。

 

それは、あなたが心の奥底で望んでいることだからです。

 

でも、あなたには本当の意味で罪はありません。

 

意識的にであれ、無意識であれ、あなたはいかなる罪悪感をも感じる必要はないのです。

 

なぜか自分のことを責め続ける人は、実はとても敏感で、神さまのことを思い出しつつある人なのです。

 

死への欲求が強ければ強いほど、あなたは真実にとても近いところにいます。

 

これは、あなたが過去生において良いカルマをたくさん蒔いてきたことの証でもあります。(カルマというものも、この世界の幻想の一部です)

 

それでは、真実を知ってください。

 

あなたがこの世界から抜け出す道は無数に存在していますが、その一つがあなたがこの世界を許し、手放し、愛することにあります。

 

愛です。

 

愛があなたを救います。

 

あなたは愛です。

 

神さまというのも、愛のことです。

 

あなたは愛と一つでした。

 

もちろん、今も一つです。

 

というのも、この世界は本当の意味では存在していないからです。

 

この世界は人間としてのあなたの知覚が見せている錯覚に過ぎません。

 

とても良くできた錯覚なので、なかなか見抜くのが難しいのは否めませんけどね。

 

これらの錯覚に惑わされないためには、あなたが自分のことをその体だと思うことをやめる必要があります。

 

まず、体と心を分けてください。

 

ここではとりあえず、心が「あなた」です。

 

そして次に、心というものは、たくさんの願いが集まってできているということを知ってください。

 

心は「願い」の集合体です。

 

思い、想念、表現は色々ありますが、すべてたくさんの願いが他のエネルギーにくっつくことでできているのが心です。

 

エネルギーというのはたとえば、物質であるとか、思考や感情であったりします。

 

心は何かにくっついていないと存在できないのです。

 

すべての願いが消えると、心も消えます。

 

でも、「あなた」は消えますが、本体であるあなたは消えません。

 

このときはじめて、あなたは神さまと一つになります。

 

愛に戻るのです。

 

なので、心とあなたも分けて考えてください。

 

つまり、体と心を分け、それから心とあなたを分けるということですね。

 

一般的に言われている魂というものも、この心です。

 

心は願いなので、あなたが何かを強く望むと、それを妨害しようとする「人」や「もの」や「出来事」も強く現れることがよくあります。

 

これは、心は願いが叶うと消えてしまうので、心が存在し続けたいがために行う工作なのです。

 

この働きをエゴと呼びます。

 

一つひとつの心は、実はエゴなのです。

 

エゴというのは、仕組みでもあり、個別の心でもあります。

 

大きな視点で見れば、世界を創造したのもこのエゴであり、世界そのものもエゴです。(世界という仕組みと、世界という心という意味です)

 

神さまから分かれた時点で、心は2つになっていますからね。(神さまとは、一つの心(意識)のことです)

 

分かれた心はすべてエゴですし、分かれるという仕組みもエゴです。

 

エゴから解放されることが、あなたの苦しみの終わりであり、この世界の終わりです。

 

エゴから解放されるためには、願いを一つひとつ叶えてあげる必要があります。

 

普通の意味の「願いを叶える」こととは少し違うので注意してください。

 

ちょっとややこしいのですが、世界は心なので、願いが形になったものなのです。

 

また、あなたの中にある心も、願いそのものですね。(これは一般的な意味なので理解されやすいかと思います)

 

願いを叶えるためには、その願いがもうすでに叶えられているということを知る必要があります。

 

願い(心)が本当に求めているものは、「愛されたい」という望みです。

 

これは、本当は神さまと一緒にいた頃の記憶を求めているのです。

 

また、この世界はあなたの罪の意識の投影でもあるので、「許されたい」という願いでもあります。

 

この世界は、あなたを罰することであなたの償いを求めているのです。

 

だから、普通にあなたの夢であったり、目標であったりするものを叶えるという方法で生きることも本来の意味で正しいのですが、すべての願いがもうすでに叶えられているという考え方で生きる方が、もっと早くこの世界から抜け出すことができる手段でもあります。

 

簡単に言うと、すべてのものを許す、すべてのものを愛するということになるのですが、これは誤解されやすいのです。

 

世界が存在しているというレベルでどれだけ何かを愛しても、何も変わることはありません。

 

それは愛ではなくて、執着だからです。

 

そうではなくて、この世界は幻想であることを知りながら、それでもなお起きていることは完璧で、あるがままに起きているということを許し認めること、そしてそのことに執着せずに手放すという姿勢が、愛することなのです。

 

「神のみ心のままに」という境地がそれなのです。

 

そのような姿勢で生きるとき、あなたの自由は約束されます。

 

世界は次第に形を変え、奇跡のような体験へと変わっていきます。

 

長々と罪と罰のストーリーを書きましたが、これらは愛という姿勢を貫くための方便であり、「神のみ心のままに」という境地に立てるなら、どんなストーリーや考え方であっても構わないのです。

 

すべての宗教はそういう意味では方便なのです。

 

方便とは仮の手段、良い嘘、ホワイトライのことですね。

 

あなたが納得できるなら、どんな方法でも構わないので、愛に目覚めて欲しいと思います。

 

愛こそはすべてです。

 

あなたの心がけ一つで、シンプルでありながら、最強の力があなたと共にあります。

 

あなたの生きる毎日が、神のみ心のままにありますように。

 

愛と光を。

 

※聖書の引用は、日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』からのものです。

 

罪と罰 1 (光文社古典新訳文庫)

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